[パレスチナ / イスラエル] 聖なる地を旅して訪れた、多様性に富む美しい風景の数々

イスラエル / パレスチナ

パレスチナとイスラエル。両国が現在ある場所は、聖なる地として古代から重要な歴史の舞台になってきた。

ユダヤ教とキリスト教の発祥の地でもあるこの地域は、宗教、文化、商業、政治の交差点として、エジプト、ローマ、モンゴル、オスマン、イギリス…など多くの民族に支配されてきた波乱に満ちた歴史がある。

今回の旅で訪れたこの聖なる地の美しい風景を、一挙に紹介してみようと思います。政治問題に興味のない人も、この地を訪れたくなるかも。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地 エルサレム

エルサレム、名前を聞いただけで神聖な感じがするような、誰もが一度は聞いたことがあるであろう都市の名前。

エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって共通の聖地であり、地政学的にも重要な場所であることから、歴史上何度も何度も繰り返し争いが起き、支配者が替わってきました。

城壁に囲まれ、古い建物が建ち並ぶ通路が迷路のように入り組む旧市街には、現在もユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒に加えアルメニア人などが、区域を分けてはいますが共存しています。

ユダヤ教にとっては、エルサレムはその信仰を集めていたエルサレム神殿が置かれていた聖地。

紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立すると、2代目のダビデ王によってエルサレムは都と定められる。その後、3代目のソロモン王によって王国は絶頂期を迎え、エルサレム神殿(第一神殿)を建設。

ソロモン王の死後の紀元前930年ごろに王国は南北に分裂し、エルサレムはユダ王国の首都に。

その後ユダ王国はバビロニアにより滅ぼされるが、紀元前539年に新バビロニアがアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ペルシア王キュロス2世はユダヤ人のエルサレムへの帰還を認め、エルサレムは再建されることに。

有名な「嘆きの壁」というのは、その後ローマの支配下になりながらも、ユダヤ人の国を支えて発展させたヘロデ大王が築いたエルサレム神殿の西側の外壁の一部です。

神殿はユダヤ人がローマ帝国に対して反乱を起こしたユダヤ戦争の際に、ローマ帝国によって粉々に粉砕されましたが、現在まで西側の地盤の壁だけが残っているのです。

嘆きの壁の前では毎日多くのユダヤ人が壁に向かい祈りを捧げる。しばらくそんな姿を眺めていると、こちらまで神聖な気分になってくるよう。

キリスト教にとっては、イエス・キリストが教えを述べ、処刑され、埋葬され、復活した場所。

キリスト教ではイエスこそが旧約聖書に預言されたメシアで、新約聖書の黙示録には、将来的にエルサレムは再臨したイエスが治める王国の首都となると記されている。

エルサレム旧市街にある聖墳墓教会は、イエス・キリストが十字架にかけられて処刑された場所に建つ教会。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされ、現在はキリスト教の聖地となっています。

教会内部には、イエスが十字架に架けられ処刑された場所や、イエスの遺体を埋葬したとされる場所などが。

各国から訪れる巡礼者は、イエス・キリストが処刑を宣告され、十字架を背負ってゴルゴダ丘(現在の聖墳墓教会がある場所)に向かって歩いたと言われる道の軌跡をたどる。

この道はヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、現在のライオン門付近から聖墳墓教会がある場所までである。

イスラム教にとっては、エルサレムはムハンマドが一夜のうちに昇天する旅(ミウラージュ)を体験し、天に召された場所とされ、サウジアラビアのメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とされる。

聖地とされる「神殿の丘」には金色のドームが印象的な「岩のドーム」。このドームはムハンマドが昇天したとされる神聖な岩を覆うために建設された。

同じ敷地内には銀のドームと呼ばれる、アルアクサ―・モスクがある。

イスラーム最初期につくられたモスクのひとつであり、当初は現在のカアバ神殿以前のイスラム教の最高聖地だったそう。最初キブラはここの方向に定められていたのだとか。

このようにエルサレムの旧市街は、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地であり、北東はムスリム地区、北西はキリスト教徒地区、南西はアルメニア正教徒地区、南東はユダヤ人地区のように分かれている。

城壁に設けられた門をくぐると、そこは別世界。旧市街を歩いているうちに、目まぐるしく周囲の風景と人々が変わっていくのが面白い。

ユダヤ人地区を散策していると、キッパを頭に付けた人、黒ずくめの衣服に大きな帽子、豊かなあごひげに、クルクル巻きの長いもみあげの姿の人も多く見かける。

ユダヤ人地区内に多くあるシナゴーグでユダヤ教について勉強している人々もたくさん。

ムスリム地区では、スカーフを巻いた女性たちがショッピングを楽しみ、ベーカリーからは焼き立てのパンの香りが。

キリスト教地区には市場はなく、静かで穏やかな感じ。

歩いているエリアが変わるたびに出会う人や通りの雰囲気ががらりと変わる不思議な場所で、街歩きが楽しく飽きない場所だった。

旧市街を囲む城壁のヤッフォ門近くには、ダビデの塔と呼ばれる古代からの城塞があり、内部を見学できる。

この城砦はヘロデ王が既存の城壁に増築を施したのが始まりであり、長い年月にわたり増改築を繰り返し、おおよそ今の形になったのはマムルーク朝からオスマン朝の時代にかけてなのだとか。

内部をじっくり散策するのも面白いけれど、圧巻は砦内にある塔からの景色。

エルサレムの旧市街と新市街を一望することができる。

古代からの歴史があるエルサレムの旧市街。時代を経るごとに元々あった街の上に、新しい街が築かれてきた。

そのためエルサレムの地下には古代の遺構がが残されており、今でも発掘が進んでいて、新しい発見がたくさんあるそう。

城壁の外側である、旧市街の西側は新市街と呼ばれる近代的な都市が広がる。

近代的なショッピングモールや大学、お洒落なカフェやバーがたくさん。

エルサレムには数日しか滞在しなかったけれど、長期滞在でじっくりこの街を理解するのも面白い旅になるだろうと思った。

絶景の渓谷美 Wadi Qelt(ワディ・ケルト)

イスラエル / パレスチナで最高に美しいトレッキングルートが、エルサレム北東にあるWadi Qeltです。

トレッキングは、エルサレムの近くのAlmonというユダヤ人入植地から始まり、パレスチナ自治区の都市エリコまで。

切り立った崖の谷間には清流が流れ、魚が泳ぎ、鳥が飛び交う。

周囲が砂漠のような風景だからこそ、この渓谷の水と緑が一層引き立つ。

エルサレム側からのトレッキング前半には、泳げるような自然のプールもあって最高に気持ちいい。

ゴールのエリコの前には崖に建設された聖ジョージ修道院がり、自然とともに歴史的建築も楽しめる、かなりおススメのトレッキングルートです。

ユネスコ世界遺産の村バティールとマルサバ修道院

バティールとマルサバ修道院は、パレスチナ自治区のベツレヘムという街の近くにあるので、そこを拠点にしていく行きやすい。

バティールには2,000年にわたって使用されてきた伝統的な灌漑システムと段々畑があり、2014年にユネスコ世界遺産に登録された。

バティールの灌漑システムが整備されたのは古代ローマ時代で、近隣の7つの湧水から現在でも同様の流水網が利用されているらしい。

説明してくれる人がいなかったので灌漑システムの詳細は分からなかったけれど、村の景観は美しかった。

周辺にはトレッキングルートも整備されていて、オリーブの木の段々畑とバティールの灌漑システムの水源である湧水のプールがある美しい景観を楽しむことができる。

続いてはマルサバ修道院。

渓谷を見下ろす断崖絶壁に建てられた見事な姿。

マルサバ修道院は、ケデロン渓谷にあるギリシャ正教会の修道院。5世紀にエルサレムの聖サバスをはじめとする修道士たちにより設立され、世界で最も古くから住民がいる修道院の1つであると考えられている。

17世紀には4000人もの修道士がここに居住していたらしく、現在でも20人ほどが住んでいるのだとか。

切り立った崖のところどころには洞穴があり、かつて修道士たちがここで修行をしていたことが想像できる。

修道院には女性が入ると地震で修道院が崩壊してしまうという言い伝えがあるらしく、女人禁制という古い伝統も今なお守られ続けている。

またマルサバ修道院の修道士たちは、電気や水道、通信技術といった近代的なインフラにも頼らず、修道院の地下の湧き水を飲み水として利用しているのだとか。

周囲には起伏の激しい丘が連なっており、砂漠の荒涼とした風景も重なって何とも神聖な雰囲気。

かつて修道院を設立した聖サバスや修道士たちも、こういった場所に神を近く感じたのだろう。

マルサバ修道院の近くに住んでいるベドウィンのおっちゃんとも仲良くなって楽しかった。

旅人を迎えるのが大好きなおっちゃんなので、マルサバ修道院を訪れるついでに、彼のテントに泊めてもらって一夜を過ごすのも楽しいと思う。

死海への旅 ユダヤ民族の聖地マサダと美しい渓谷エン・ゲディ

イスラエルとパレスチナを訪れるなら、死海は外せない。

塩分濃度が高く、何の努力もせずに体が簡単に浮く不思議な体験。

また海抜マイナス400メートルと、地上部としては一番低い場所にあるので何とも不思議なエネルギーがあるように感じる場所なのです。

まずは紀元前120年頃、死海のほとりの砂漠にそびえる切り立った岩山の上に建設された城塞マサダ。

マサダは後にエルサレム第二神殿を完成させた、ヘロデ大王が離宮としても利用していた。

山頂へは「蛇の道」と呼ばれる細い登山道が一本あるのみで、周囲は切り立った崖で、難攻不落と言われた。

66年ローマ帝国に対してユダヤ人が反乱を起こしたユダヤ戦争が勃発し、エルサレムが陥落した際には、マサダは実際に砦として利用された。

兵士、女性、子供を含むユダヤ人約1000人が包囲を逃れ、マサダに籠城。ローマ軍も、攻撃を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐね、山の西側の崖を埋めて攻撃する作戦に。

ユダヤ軍は何とマサダに籠城して3年も籠城し防戦しましたが、やがて山腹は埋められ敗北も目前に。

抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の慣習であったそう。

敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって今後の方針を協議した。

その結果、奴隷となるより死をと、突入の前夜に籠城ユダヤ人はほぼ全員が集団自決していたと伝えられる。

その後、ユダヤの民は離散し、現在の歴史へとつながってくる。マサダは20世紀もの間ユダヤの誇りの象徴とされ、今も多くのユダヤ人がこの地に巡礼に足を運びます。

ここに約1000人のユダヤ人が立てこもり、3年に渡って生活していたので、住居跡はもちろんのこと、ユダヤ教のシナゴーグ跡やサウナ風の大浴場跡などもあります。

なにより驚くのは、1000人の人間が生きるための地下貯水池の跡です。

写真の通り、マサダの一帯では雨の降らない砂漠地帯。

しかし冬の時期になると、はるか西のエルサレム高地方面で降った雨が地下伏流水となり、海面下400mほどの非常に低いユダ荒野の砂漠地帯で一挙に地上に出て、鉄砲水となり死海に注ぐのだとか。

マサダは、この一時的な鉄砲水を、上手く設計された水路で導き、要塞内部の巨大な貯水施設に注ぎ込むのです。なんとこのマサダ内部に12の巨大貯水槽があり、4トンもの水を貯めることができたそう。

マサダから死海沿いに北へ進むと、エン・ゲディ自然保護地区が。

ここではダビデの滝や泳げるプールなど、砂漠地帯の渓谷にある美しい景観を楽しむことができる。

トレッキングで渓谷の上まで登ると、そこから死海を望む絶景が。

渓谷沿いには美しい清流が流れ、砂漠にポツンとあるオアシスのよう。

死海沿いを旅するなら、ぜひ訪れてみてほしい。

マサダとエン・ゲディを訪れた後は、死海の畔でキャンプ。

しかし、夜にテントを離れ死海の近くを1時間ほど歩いて帰ってくると、なにやら怪しい物音が。

そしてキャンプに戻ると、友人のテントがめちゃくちゃに壊れている。そう巨大なイノシシがテントの中にあった食べ物目当てにやってきていたのでした。

幸いにも私のテントは無事だった。食料はまとめて近くの木の枝にぶら下げていたので。

しかし、夜にガサガサという物音で目覚め、その方向にライトを照らすと、やはり巨大なイノシシがむしゃむしゃと食料を食べている。

かなり高いところにある木の枝にぶら下げていたのに、枝ごとなぎ倒して…。食料が食べられているのは悔しいけれど、何もできず。

テントからイノシシがこっちにこないように手を叩いたり、音楽を流して恐がらせることしかできない。マジでビビって、眠れない夜だった。

翌日、食料をチェックすると、1本のズッキーニと3つのオレンジを残して、全て食べていったイノシシ。

朝ごはん抜きでしょうがなくなく訪れたのは、近くにあったMatsoke Dragotというビーチ。ここはヒッピービーチとして有名で、話を聞くとここにテントや簡易な住まいを作り、10年以上住んでいる人たちもいる。

ありがたい事に優しいヒッピーの人たち、少しこのあたりの事について尋ねただけだったのに、食料やらワインまで分けてくれた。死海で裸で泳いでいるけど、そんな事は気にならない。

面白い場所だったので、機会があればぜひここもチェックしてみてほしい。ただイノシシには気をつけて。

旧市街が美しいナブルスと古代ローマ遺跡のあるサバスティア

ナブルスはパレスチナ自治区の北にある旧市街が美しい街。パレスチナで一番素敵な旧市街だと思います。

昔ながらの石造りの街並みに、街の中心にある賑やかなスーク(市場)、見事なモスクに、現在でも利用されているトルコ風呂。

フレンドリーな人々が多く「パレスチナへようこそ!」と通りを歩いていると声がかかる。

そしてそれほど観光地化されてないのがいい。地元の人が旧市街に暮らしている中に、自然と混ぜてもらっている感じ。観光客向けのビジネスは、ここではまだ盛んでないのもいい。

ナブルスは中世よりオリーブとオリーブオイルの生産で有名であり、そのオリーブオイルと苛性ソーダから作られるオリーブ石鹸は、250年以上前からナブルスの特産品としてよく知られており、石鹸の工場も見学できる。

もう一つ有名なのがナブルス発祥とも言われるアラブのお菓子コナファ。

しっとりしたスポンジ生地の中にとろけるような山羊のチーズ、表面にはシロップとピスタチオの粉をかけた甘ーいお菓子。

コナファはナブルスの人にとっての自慢のソウルフード!

ナブルスを訪れたら、ついでに立ち寄ってほしいのがセバスティア(Sebastia)という村。

古代セバスティアの都市の遺跡が小高い丘の上に残されている。

村の中心にあるモスクには、小さな美術館もあり、発掘で発見された貴重品がい展示されている。

イスラエルの北端部 緑豊かなゴラン高原近郊

イスラエルとパレスチナの旅で最後に訪れたのは、イスラエル最北端のゴラン高原付近。

ここは国内の他の地域よりも緑に溢れ、チェリーやリンゴなど多種多様の果樹園が広がっていた。

カウチサーフィンで泊めてもらっていたメツラ(Metula)という街は、レバノンとの国境沿いにあり、丘の上からはレバノンが目の前に見える。

まず訪れたのはメツラの街のすぐ近くにある、アユン・ストリーム自然保護区。

切り立った崖の渓谷美とそこを流れ落ちる美しい滝の数々。

イスラエルとパレスチナの美しい自然といえば、渓谷ばっかり(笑)

高原地帯から流れてくる、雪解け水が豊富なおかげで、この辺りには豊かな清流が流れる。

中央東部や南部の砂漠地帯とは、一変する風景。

続いて訪れたのがヘルモン・ストリーム自然保護区。

ここはギリシャ、ローマ時代の遺跡とバニアスの滝を中心とした、ヘルモン山の雪解け水が流れる豊かな泉と川に囲まれた美しい公園。

自然保護区内に入ると、まず目に飛び込んでくるのが清流が流れる泉。

この地がアレキサンダー大王に征服されたBC332年頃からで、それによりギリシャ文化がもたらされ、泉があり肥沃なこの地にギリシャの神である「パンの神」が祭られるようになった。

泉の向こう側にそのパン神を祭った洞窟が見えます。

その後ローマの時代になり、この地はヘロデ大王とその息子ピリポ、そしてピリポの息子アグリッパ2世の時代へ。

公園内ではその当時の遺構を今でも見ることができます。例えばこちらは当時の水道橋。

こちらは急流を活かした、水力製粉機。

アグリッパ2世が建設したという宮殿跡も現在に残されています。

このヘルモン・ストリーム自然保護区からバニアスの滝までは、清流沿い歩くトレッキングもできます。

歴史と自然を同時に楽しめるが魅力的な場所であった。

ヨルダン入国前に最後に訪れたのが美しいガリラヤ湖。

キャンプしたスシータビーチは湖畔の最高のロケーションで、トイレとシャワー有りでテントの設置無料の究極のキャンプ場。

イスラエルで最大の湖であり、海抜はマイナス213メートルと死海に次いでの海抜の低さ。

福音書によるとイエスの布教活動はほとんどガリラヤ湖周辺で行われたことから、イエス・キリストゆかりの場所としても有名。

湖の上を歩く、嵐を鎮めるなどのイエスの行ったとされる奇跡もガリラヤ湖畔で行われたものが多かったと推測されているのだとか。

そんな神聖な湖で湖水浴。イスラエルとパレスチナの旅、最後の時間を楽しむ。

合計2ヵ月半と予想以上に長期滞在してしまったけれど、それほど魅力的な場所だったという事だろう。

次はヨルダンへ!

おわりに

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