ケナを離れて南へ40km。言わずと知れたエジプトの観光地ルクソールへやってきた。
ルクソールは、古代エジプト時代、首都テーベとして何世紀にもわたって栄華の中心であった場所。
何千年もの時を越えて、当時の面影を探す旅へ。
ナイル川東岸 カルナック神殿とルクソール神殿が見所だが…
エジプトの観光の名所ルクソールへ到着。エジプトで一番見所が多い都市だという事実とは裏腹に、ここは友人の旅人仲間から最も嫌われていた街。
その理由は観光客目当てのビジネスで稼ごうと、目をギラギラさせているエジプト人観光客ハンターが、しつこくしつこく声をかけてくるから。
事前に悪い噂ばかり聞いていたので、ルクソールでは現地人との交流は極力控えて、観光に特化することにした。
カウチサーフィンで泊めてもらう事はできたけれど、「車があるからルクソール中を案内するよ!(もちろん有料で)」とビジネスの話も絡めてきて、やんわりと断ると家を追い出されそうになって(笑)
やっぱりルクソールのカウチサーフィンも旅人をホストする目的ではなく、ビジネス目的でやってる人が多いんだなーと納得してがっかり…。
最初からもめて居心地は決していいとは言えなかったけれど、ビジネスの話題を避けながら4日間やり過ごす。最終的には自転車も滞在中に使わせてもらえたし、家の屋上にテントも張らせてもらえて、良かった事は良かったんだけど、精神的に疲れた!
まぁ、そんな話は脇に置いといて、
ルクソールの見所は主にナイル川東岸と西岸に分かれていて、古代エジプトのテーベの時代も東岸は太陽が昇ってくる「生者の世界」、それに対し西岸は「死者の世界」と分けて考えられていました。
そのため死者の世界の西岸には「王家の谷」などファラオの墓が多数発見されたり、「ハトシェプスト女王葬祭殿」など葬儀のための神殿が。
東岸には、アモン神を祀ったカルナック神殿やその妻ムート神を祀ったルクソール神殿が建設されたというわけです。
私が滞在していたのはナイル川西岸。繁華街で鉄道駅やバスターミナルがある東岸とは反対に、農場が広がりのんびりとした雰囲気。
西岸と東岸を結ぶのはフェリー。東岸を観光するにはフェリーでナイル川を渡ります。フェリー料金ですが、エジプト人は1ポンドで、外国人は5ポンドという5倍の価格設定。
私は自転車を借りていたので自転車もフェリーに乗せる。追加料金は無し。
こちらがフェリーから眺める西岸の風景。
高い建物はなく、農場の向こうには砂漠の風景。死者の世界っぽい??
そしてこちらが東岸の風景。ナイル川沿いにはホテルなどが建ち並びます。
フェリーが東岸に到着すると、とりあえずナイル川沿いを自転車で走ってみることに。
河川敷も整備されていて散歩するにも良さそう。
私は自転車で走っていたのでマシだったけれど、ここを歩いていたら数々の客引きに声をかけられるのだろう。
クルーズ船も停泊していました、ルクソールからアスワンを結ぶ2泊3日のクルーズがあって観光客に人気のよう。
街中を自転車で走り回ったけれど、聞いていたほど客引きには声をかけられない。
声をかけられても自転車ですぅーっと逃げれてしまう。
客引きを避けるためにも、ルクソール観光には自転車オススメかも。
さてしばらく観光した後は、カルナック神殿へ。
カルナック神殿はアモン神を祀った神殿で、東西540m、世界最大の神殿建造物。
本当は神殿の中まで観光しようと思ったのだけれど、あまりの観光客の多さに嫌気がさして中に入るのやめた。
チケットなしでも写真の場所までは入れました。
続いてはムート神を祀るルクソール神殿へ。
ルクソール神殿は、カルナック神殿の副神殿というあつかいで、年に1度のナイル川の増水期に、アメン神が妻ムート神と過ごすために訪れる「オペト祭」のために建設されたそう。
具体的にはアメン神とムート神、彼らの子供のコンス神の像をカルナック神殿から舟で運び、その像を数週間ルクソール神殿に安置し、奧の聖堂ではファラオたちによる儀式が行われたのだとか。
神像を運ぶ行列とともに歌や踊りがにぎやかに繰り広げられ、用意されたごちそうは庶民にもふるまわれたそう。
そしてカルナック神殿とルクソール神殿は、かつてスフィンクスの参道で繋がっていたといわれています。
そのスフィンクスの参道は今でも残されており、現在修復作業中(2021年11月25日に開通予定)。
ルクソール神殿も観光客で満員。カルナック神殿に続いて中には入らずに外から眺める。
外からこれだけ見えてれば、もういいかと満足してしまう。
日本の寺や、ヨーロッパの教会、中東のモスクもだけど、何度もエジプトの神殿を訪れていると、どれも同じに見えてきて興味がなくなってくるのです(笑)
一日中自転車で走り回ったルクソールも夕暮れ時になり、泊まっている西岸へ帰る時。
往路と同じフェリーで西岸へとナイル川を渡る。
なんて穏やかなナイル川の流れ、霞むような砂っぽい橙色の空。
古代エジプトのテーベの都があったルクソールで、悠久の時の流れを感じる。
ナイル川西岸 カラフルな壁画に覆われた墓や神殿を巡る
古代エジプトにおいて砂漠が果てしなく続き、日の落ちていくナイル川西側は「死者の世界」と考えられていました。
そのため王家の谷や王妃の谷、ファラオの葬儀のために建設された葬祭殿があるのもこちら側。
エジプトの歴史や遺跡に興味があまりない人でも、一目見れば驚かされる事間違いなしの圧巻の遺産の数々。
メディネット・ハブ ラムセス三世葬祭殿
ナイル川西岸でまず訪れたのが、メディネット・ハブと呼ばれる第20王朝ラムセス三世の葬祭殿。
ラムセス三世の葬儀を行う目的で建設された神殿との事で、壁や柱の壁画も良い保存状態で残されており、見応え抜群でした。
入り口から二体のセクメト像が守る門を抜けていく。
すると目の前に大きな壁画の描かれた門が登場します。
壁画の中には、ラムセス三世が「海の民」と呼ばれる、当時のエジプトを襲撃した部族の捕虜を鞭で打ち据えるような光景も描かれています。
彼の葬祭殿だけあって、彼の成し遂げてきた偉業や支配した街の名前などが壁画に描かれているようです。
こちらの壁画が描かれている門を抜ける時に天井を仰いで見ると、禿鷹の女神のネクベトが。
現在でも当時の色が残されているのには驚かされます。
門を抜けた先には右にオシリス柱、左に彫刻の施されたパピルス柱がならぶ空間。
第二の門の天井には、最初の門よりも保存状態の良いネクベトの壁画が残されていました。
色が鮮やかです。
第二の門を抜けると、さらに様々な彫刻が施された列柱の並ぶ空間が登場します。
1時間弱ぐらいあれば見て周れるので、時間に余裕のある方は、ぜひこちらの神殿も訪れてみても損はないと思います。
王妃の谷
王妃の谷は、ナイル川西岸にある岩山にある岩窟墓群。
ファラオ達の墓が王家の谷に埋葬されているのに対して、こちらには主としてファラオの妻達が埋葬されています。
現在までに約80の墓や竪坑が発見されているのだとか。
まず最初に見たのが、ラメセス3世の妻であり,姉妹でもあったティティ王妃の墓。
続いてラメセス3世の息子であるアメンヘルケプシェフ王子の墓。
ティティ王妃の墓よりも保存状態は良好で、壁画の色も鮮やかに残されています。
3個目は、ラメセス3世の王子のカエムワセト王子の墓。
こちらの壁画の保存状態もほぼ完璧で、当時の技術に驚かされます。
デル・エル・メディナ 王家の谷を作った職人たちの墓
デル・エル・メディナは、王家の墓や神殿の造営に携わった職人たちが住んでいた場所です。
職人たちは住居は衣食住に関するものを全て王から支給され、ここに集まって住んでいたのだとか。
さらにその職人たちは自分自身の墓も作っており、それがこちらの丘の斜面に残されているのです。
まずは、インヘルカウの墓へ。
インヘルカウはラムセス三と四世の時代に職人たちのリーダーだった人らしい。
続きましてはセンネジェムの墓。
センネジェムはセティ一世・ラムセス二世時代の墓づくりにおける造営責任者であった人だという。
色とりどりの色彩で描かれた壁画には驚かされるばかり。
3つ目は家族の墓と呼ばれ、墓の入り口は一つだが、中に入って地下にはラムセス二世時代の職人アメンナクトとその息子ネベンマアトとカエテムリの3つの埋葬室がある。
まずはアメンナクトの墓。黄色の下地に壁画とヒエログリフがびっしり。
続きまして、こちらはネベンマアトの墓。
こちらの壁画は黄色,赤,黒の顔料のみを使用して描かれている。
アヌビスのミイラづくりの様子や、壁の奥上部半円部分にはネフティスが描かれています。
もう凄すぎて言葉も出ません。
職人たちの墓を見学し終わった後には、少し離れた場所にあるデル・エル・メディナ神殿へ。
こちらはプトレマイオス朝時代、ハトホル女神と心理の女神マアトのために建てられた神殿だそう。
後の時代にコプト教の修道院として使われていたこともあり、壁画や建物の保存状態も良好。
神殿内に3つある小部屋の内部には素晴らしいレリーフも残されている。
貴族の墓 センネフェルの墓
センネフェルの墓は丘へ続く坂道を少し登った見晴らしの良い場所にあります。
センネフェルは、アメンヘテプ2世時代のテーベ市長でした。
センネフェルの墓は、その壁面装飾の保存状態の良さと、天井のぶどうの房の垂れ下がった蔓棚の壁画や色鮮やかな幾何学文様が描かれている事で有名。
ハトシェプスト葬祭殿
王家の谷と岩山を挟んで、切り立った崖の下にあるのがハトシェプスト女王葬祭殿。ここは女性初のファラオとなったハトシェプスト女王の葬儀のために建設された神殿です。
ハトシェプスト女王は、王家の谷に初めて王墓を築いたトトメス1世の娘で、トトメス2世の王妃でもあった女性。
しかし彼女はトトメス2世の死後、即位した幼いトトメス3世の摂政となり権力を手中に。やがてトトメス3世に変わり、自らファラオを名乗り実権を握るようになったといいます。
さらに彼女は公式の場では、ファラオとしてあごひげを付け、男性の衣服を身に付けていたのだとか。
ハトシェプスト女王葬祭殿は、3層のテラスとそれらを結ぶ傾斜路からなります。
テラスには、男装のハトシェプスト女王の立像があったそうですが、彼女の死後、ようやく即位したトトメス3世の手により一部破壊されてしまったといいます。
内部の壁や柱にあった女王の壁画や碑文も、すべて削り取られてしまったのだとか。
二階部分を正面から見て左に歩いていくと、ハトホル女神の祠堂があります。
壁画には、ハトホル女神を迎えに行く聖船などが描かれています。
反対方向の右側には,ハトシェプスト女王の誕生を題材としたレリーフが描かれているそう。
彩色がよく残った壁画が描かれているのですが,ハトシェプスト女王の図像や名前は一切削り取られているそう。
テラス三階部分の奥には、岩窟至聖所があるのですが、これもやはり破壊されており、保存状態は良いとはいえない。
これもハトシェプスト女王にファラオの地位を奪われていた、トトメス三世の仕業なのだろうか。
彼女の死後に葬祭殿を破壊し、壁画を削り取るなんて子供みたいな仕返しで面白い。
おわりに
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