[パレスチナ] イスラエルの占領が影を落とす、パレスチナの旅と風景

パレスチナ。この言葉を聞くと、テレビ画面に映し出されたミサイルが、ガザ地区に直撃する悲惨な映像が思い出されるかもしれない。

70年以上も続くイスラエルとパレスチナの紛争。パレスチナの人々はイスラエル占領のもと自由を奪われ苦しみ、イスラエルはパレスチナ人を恐れ、憎しみの連鎖がおこっているという。

今回パレスチナ自治区内のオーガニックファームで40日ほどボランティアとして滞在できる機会を頂いた。パレスチナ人と共に過ごす中で、どんな事実を知り、学ぶことができるだろう。

オム・スレイマン・ファーム-抵抗運動としての農業-

パレスチナの都市ラマッラーから西に約15km。小さな村と、丘陵地の段々畑に植えられたオリーブの木々の景色が、オム・スレイマン・ファームのあるビリンまで広がる。

ファームに到着すると、そこに広がるのは緑一杯の風景の中に、たくましく育つ野菜や果樹。その背後には分離壁を挟んで、ユダヤ人の違法入植地。

こちらのファームで、農作業の手伝いをしながら1ヵ月半ほど滞在していました。

オム・スレイマン・ファームが始まったのは2016年。Community surpported agriculture(地域支援型農業)として、現在では30家族のメンバーに支えられながら経営されている。

それはシーズンの初めに顧客から先にお金をもらい、そのお金で野菜を育てるための資材や種を購入する仕組み。そして育った野菜を収穫し顧客へと届ける。

ここでは夏と冬の二つのシーズンに分けて、毎週一回の野菜ボックスを各家庭に届けている。

ここオム・スレイマン・ファームのある場所は、イスラエルの占領に対する抵抗運動として象徴的な土地でもある。

なぜなら現在ファームのある土地は、パレスチナ人の必死の抵抗運動によって、もともとあった分離壁をイスラエル側に押し返す形で取り戻した土地だからだ。

かつてファームの目の前に広がる分離壁は、国際的に定められたグリーンラインよりもビリンの村に食い込む形で存在した。

その影響で地元の農家たちは1000年と世代を越えて続いてきた先祖代々の土地を、耕しに行くこともできなくなってしまった。

しかしビリン村の抵抗運動により、イスラエルの最高裁が軍に分離壁をイスラエル側寄りに下げることを認めさせた。その結果取り戻した土地を、地元の人たちが寄付する形でオム・スレイマン・ファームが誕生したのだ。

このファームの存在の意味は、ただメンバーに新鮮な有機野菜を届けるというだけにとどまらない。

これはイスラエルの占領に対する平和な抵抗運動でもある。

「もしパレスチナ人が自身の食料を自身で供給できなければ、エネルギーも住む場所も自足自給できないなら、一体どうやってこの占領から抜け出すことができるだろうか?」とは、ここで2018年から働くヤラの言葉。

自給自足は自由への最初の一歩。残念な事に、現在は水や電気、食料などを占領者側に頼ってしまっている。

またパレスチナは、イスラエルから物資を買うことを半ば強制されている。それは国境をイスラエルにコントロールされているためだ。

そのためイスラエル産の物資をポイコットすることもできず、ますますイスラエル経済への依存を深めている。パレスチナに販売される野菜は、イスラエルでは消費されないような最低の品質のモノばかりだそうだ。

占領者側としてはパレスチナをよりイスラエルにとって都合の良いマーケットにしたいのだろう。

これに対しオム・スレイマン・ファームの活動は、パレスチナ人として自分達の土地を守る事、アイデンティティを取り戻す事、就労の機会を与える事、持続可能に自給自足できるようになる事。これらの活動を含んだ、最も平和な抵抗運動であると言える。

ヤラはオム・スレイマン・ファームを有機農場の域を越えて、人々の教育やアイデアをシェアするコミュニティセンターのような場所にしたいそうだ。

そしてそれは現実として実現しつつある。

私が滞在していた1か月半の間にもパレスチナ人だけでなく、世界各国からのボランティアが協力してオム・スレイマン・ファームを支えるために働いていた。

ファームでの作業中には、向かい側の入植地から聞こえてくる「コン、コン、コン、コン」という建設現場の音。まだまだ入植地を拡大するつもりらしい。

そして夜中になると真っ暗なファームに対し、現実に起こっているとは思えないような向こう側の入植地には、まばゆいライトが光っている。

何だかサイエンスフィクションの英語の世界に迷い込んだような不気味な気持ちになった事を覚えている。

そんな建設現場の雑音もモチベーションに変えながら、1か月半の間で実にたくさんの仕事をした。

毎日の水やり、種まき、草抜き、畝の準備、数えるとキリがないくらい。

そして多様性を大切にしているこのファームでは、実に色んな野菜が育っていた。

ボランティアもファームで育った野菜を収穫し、調理することが許されているので、採れたての新鮮な野菜を皆で調理して頂くのは幸せだった。

収穫の日は週に2回。ファームメンバーとボランティアが力を合わせて収穫した野菜が顧客へと届けられる。

自分たちが世話をして育てた野菜を収穫できる瞬間の喜びは大きい。

オム・スレイマン・ファームでボランティアとして働けて、よりパレスチナを近くに感じるようになれた。

今までは遠い世界の問題だったけれど、いまでは友人や仲間の問題。これからもパレスチナがどうなっていくか、オム・スレイマン・ファームがどんな役割を担っていくのか見守っていく。

パレスチナの風景と分離壁に囲まれた街ベツレヘム

パレスチナを旅していると、丘陵地に広がるオリーブ畑や、大地がパックリと避けたような渓谷など美しい風景出くわす。

しかしそれ以上に目立つのが丘の頂上に建設されたイスラエルの違法入植地、パレスチナ人を監視するための醜い軍の監視塔や、そこから銃を向ける兵士、そして分離壁。

パレスチナ自治区ヨルダン川西岸の面積の61%がイスラエルの軍事支配下にあり、各地でイスラエル入植地が作られている。そして入植地との境界には高さ8mに及ぶ巨大な壁が建設されている…。

その分離壁が最も有名なのはベツレヘムという街。ベツレヘムを囲む分離壁には、イスラエルの占領を時には皮肉やユーモアを加えて表現された壁画が描かれている。

またベツレヘムは、マリアがイエスを生んだことになっていることから、キリスト教の聖地でもある。

旧市街には昔ながらの建物が多く残されており、良い雰囲気で街歩きも楽しい。

世界各国から聖地を訪れる旅行者の姿も多く見かける。

しかしベツレヘムの街は分離壁に囲まれているため、エルサレムからベツレヘムを訪れるためは、イスラエル軍によるチェックポイントと呼ばれるセキュリティゲートを通り抜けなければならない。

嫌でもこの醜い分離壁を目にするわけだ。

また、パレスチナのパスポートしか持っていないパレスチナ人にとっては、「入域許可証」がない限りこのゲートから外へ出ることは許されない…。つまり聖地であるエルサレムへも許可証なしには、合法的に訪れることはできないのだ。

2002年以降に建設され始めた分離壁について、イスラエルは自国への攻撃を防ぐために必要で、壁の建設によりパレスチナ人による*テロリストアタックの数は激減したと説明している。

しかし分離壁はパレスチナ自治区内のイスラエル人専用の道路や入植地とつながり、パレスチナ自治区を飛び地状態にしてしまっている。

その結果、村が壁によって隔てられたり、学校や職場、病院、自分の畑などに行くための道路が閉ざされてチェックポイントで足止めされるというような事態が起きている…。

国際的には、分離壁そのものがパレスチナ人の生活を分断して大きな影響を与えていることから、分離壁の建設は不当な差別であると非難されており、国際司法裁判所は2004年7月9日にイスラエル政府の分離壁の建設を国際法に反し違法であるとしているのだが…。

そんなパレスチナの状況を皮肉やユーモアも交えて表現された、ベツレヘムの壁画アートの一部がこちら。

バンクシーが芸術作品を分離壁に描いたことでも話題になり、こういった芸術作品が70年以上にも及ぶこの紛争に国際社会の関心をつなぎ留める助けになる事を願う。

さてパレスチナの土地は、イスラエルの建国以降急激に縮小してきました。そして分離壁とイスラエル軍のチェックポイントにより彼らの土地は飛び地状態になってしまっています。

さらにイスラエルはパレスチナ自治区を、下記のようにA、B、Cと3つの地区にに分割して管理しています。

A地区 : 行政も治安もパレスチナ暫定自治政府が担います。エリコや、ラマッラ、ナブルスなどの大きい都市が含まれています。西岸地区の18%を占める。

B地区 : 行政はパレスチナ、治安はイスラエルが権限を持っています。22%の土地。

C地区 : 60%の白い部分で行政も治安もイスラエルが権限を持つ。

C地区は、入植地の安全と拡大、軍事演習地や水資源確保および経済的な利益のために、A地区とB地区を取り囲むように作られているそうだ。

ここでは、家屋や建物の建設も、井戸掘りも、道路整備もすべてイスラエル軍当局の許可が必要で、パレスチナ人が資源や土地を使う事を禁止している。

こうして西岸の戦略的な高地には多くの「ユダヤ人入植地」が作られ、すでに15万人が住んでいるのだとか。またヨルダン渓谷の肥沃な土地には、広大な農業入植地も作られ、貴重な水資源と農地を確保されている

また入植地の建設や拡大のために、農地の破壊や土地の没収が頻繁に起こっているようだ。農村部ではイスラエル軍による村への侵攻があったり、イスラエル軍への若者による投石に対しては、実弾の発砲や逮捕などが頻繁に起きている。

オム・スレイマン・ファームにもイスラエル軍が来て、ファームでの仕事を続けるなと警告しに来たことが何度もあるという。一緒に働いていた日本人の友人が催涙ガスを投げられたこともあった。

こんな現実とは信じられないような事がパレスチナでは起こっているのだが、そんな中でも人々はイスラエルの占領に怒りと不満を感じながらも日々を過ごしている。

例えばラマッラーは、エルサレムからもほど近いパレスチナの街。パレスチナの他の街に比べ、オープンな雰囲気で知られている。

お酒を楽しめるような、良い感じのバーも何軒かある。オープンというのはこういう意味で、例えばヒジャブをつけていない女性も多く、フェミニズムの活動も盛んな街である。

音楽のイベントなども頻繁に行われている。アクティブな街だと言える。

またナブルスという街は美しい旧市街で有名。

昔ながらの共同浴場などの施設が現在でも使われている。

フレンドリーな人々が多く、街を歩いているだけで「パレスチナにようこそ!」と声をかけてくれる人が多かった。

農村部には、美しいオスマン帝国時代からの古い建物が残る小さくも美しい村もある。

こちらはパレスチナを象徴するような、段々畑に植えられたオリーブの木々が美しい風景。

こんなに美しい場所なのに、イスラエルの占領が影を落とす。

いつかパレスチナ人が故郷を取り戻し、自由の空気を吸って暮らすことができるようになるのだろうか。

現在パレスチナで起こっている事は、現代社会が抱える世界共通の問題でもある。ここでは現代社会の歪が目に見えるので嫌でも考えさせられる。

おわりに

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