[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ] スルプスカ共和国から雰囲気はガラッと変わる 首都サラエボへ

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

バニャルカ→シポボと訪れた後は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを南下。スルプスカ共和国を後にして、よりイスラムの影響が強い地域へと。

セルビア人中心のスルプスカ共和国から街の景観はガラっと変わる。

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ボスニアで一番美しいプリヴァの滝?ヤイツェへ

スルプスカ共和国を去り、最初に訪れた街はヤイツェ。ヤイツェはオスマン帝国に支配される以前の、ボスニア王国の首都であった。街で一番高い丘の上には要塞があり、街の中にも門や城壁が。歩いていて楽しい街。

またユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の会合が1943年に開かれ、ユーゴスラビア連邦の設立とチトーを首相とすることなどについて議決されたのもこの街。ユーゴスラビアが誕生した街ヤイツェ。

そんな歴史よりもヤイツェが知られているのは、高さ20mある美しいプリヴァの滝。ボスニア・ヘルツェゴヴィナで一番美しい滝とも呼ばれているそう。

滝自体も美しいのですが、その背後に佇むヤイツェの街の風景と合わさって、何ともフォトジェニックな風景に。

上の写真にも写っているのですが、ヤイツェの街の丘の上には14世紀に建設されたヤイツェ要塞があります。

その昔、この要塞内にも町があったのだとか。現在はちょっと廃墟になっていて、当時の姿を想像することは難しい。

ヤイツェ要塞は街の一番高い場所にあるので、街と周辺の景色を一望できます。

周辺は山に囲まれており、のどかな田舎風景が広がります。

城塞を下り、ヤイツェの旧市街を散策。小さい村なので、徒歩での散策に丁度いい。

オスマントルコ時代の影響が強く、旧市街周辺はトルコ風の雰囲気です。

ヤイツェの郊外にはプリヴァ湖があり、ここでは昔使われていた水力での製粉機を見ることができます。

山と森に囲まれた公園のようになっているので、ヤイツェを訪れられた際は足を伸ばしてはいかがでしょうか。

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ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボ到着

ヤイツェを離れた後は、サラエボに向かいます。途中、トラブニックという街に寄ってボスニアで一番美味しいといわれるチェバピを食べてからサラエボへ。

途中雨が降ってきて、その中でのヒッチハイクは大変だったけれど。。。ここまで来ると、スルプスカ共和国のセルビア風の街並みとは全く違う。オスマントルコ風の建物が並び、モスクが至る所に。

雨の中のヒッチハイクを経て、無事にサラエボへ到着。この街ではカウチサーフィンでタファニにホストしてもらっていました。日本人とインドネシア人のハーフで、ここサラエボで学生をしている。

一緒にお好み焼きを作ったりと、楽しかったー!

多民族・多宗教が共存して来たサラエボ。狭いエリアの中で様々な文化が見られるのが面白い。宗教においてもカトリック、セルビア正教会、ユダヤ教、イスラム教などの各宗教施設がサラエボ中心に建ち並び、それらが混ざり合って無国籍な雰囲気。

オスマン帝国時代の街並が残るエリアでは、モスクもそこかしこに。オスマン帝国時代からの水飲み場のあるバシチャルシア広場には職人街があり、銅製の水差しや金銀細工を制作・販売する店がたくさん。そこはまるでトルコのバザールのよう。

そしてバシチャルシア広場からたった500mほどしか離れていない場所にカトリック大聖堂が。正式にはイエスの聖心大聖堂と呼ばれ、1889年に完成しました。

ここカトリック大聖堂周辺の街並はヨーロッパ風の建物が並びます。エリアによって街並みがガラッと変わる。

そんなエリアによって街並みも文化も変化するサラエボの街は、散策するのがめっちゃ楽しい。

街を歩いていると、男たちがワイワイいいながら集まっている。なんだ、なんだと思って近寄ってみると、男たちは巨大なチェスで遊んでいた。いいなーこれ。日本で将棋バージョンできないかな。

またサラエボの中心に戻り、今度は丘の上にある城塞に登りに行く。

まずは黄色の要塞と呼ばれる「城壁都市ヴラトニク」の入り口にある大砲要塞へ。ここからのサラエボの景色はこちら。

続いては白い要塞と呼ばれる、オスマン帝国時代に築かれた要塞へ。ここからの景色も絶景。

このように魅力たっぷりのサラエボですが、その歴史には悲しい過去も。

サラエボ事件として知られていますが、1914年ボスニアを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子夫妻がサラエボを訪れた際、政治結社・青年ボスニア党のセルビア人ガブリロ・プリンツィプに狙撃され死亡。

この出来事が世界各国を巻き込む第一次世界大戦のきっかけに。事件が起こったのはサラエボにかかる、このラテン橋の前。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の際には、サラエボは1992年から1996年までセルビア人勢力に完全に包囲され、12,000人が死亡し、50,000人が負傷したものと推定されています。そのうちうち85%は一般市民であったのだとか。

殺害と強制移住によって戦時中である1995年の人口は、紛争前の市民の数の64%の334,663人にまで減少。その見えない傷跡は今も人々の間に深く刻み込まれているに違いありません。

未だにビルにも砲撃の跡が残されています。

スルプスカ共和国でもセルビア人の人々に親切にしてもらったし、ヤイツェやサラエボでも人々はめちゃくちゃフレンドリーで親切だった。それが政治的理由により分断され、洗脳される。元々あったものでなくて、人工的に作られる民族間の憎悪。

ボスニア・ヘルツェゴビナだから起きたんじゃなくて、その種はどこにでもある。二度とあんな悲劇が起こらないように、私たちは常に気をつけなければならない。

おわりに

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コメント

  1. […] […]

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