6ヵ月間滞在したエジプトを離れ、次に訪れたのはイスラエル。
イスラエルと聞くとユダヤ教を信じるユダヤ人の国、ユダヤ人とアラブ人の争うパレスチナ問題。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地があるエルサレムといったキーワードが頭に浮かぶ。
ここでは一体どんな体験が待っているのか。エジプトシナイ半島のターバ国境を越えて、中東の新たな国へ。
ターバ国境を越え、イスラエルへ
美しい紅海の景色を右手に眺めながらシナイ半島をダハブから北上し、イスラエルとの国境があるターバの街へ。
6ヵ月以上も長期間滞在したエジプトを離れる時がやってきた。この記事を書いてる間にもエジプトが恋しくなってきた。
エジプト側の出国はすんなりと終え、イスラエル側の入国審査。久しぶりにマスクをつけて、厳重な荷物検査が行われる。
セキュリティに「どれくらいエジプトに滞在していたのですか?」と質問され、正直に「6ヵ月以上です」と答えると別室に移動させられ、根掘り葉掘りに質問の嵐。
イスラエルでの滞在目的に始まり、エジプトに限らずこれまでの旅の話、ソーシャルメディアのアカウントまで確認され発言に嘘がないか確認される始末。
30分ぐらい質問攻めにあった後、ようやく入国審査。無事に3ヵ月の滞在許可を得た後は到着後のPCR検査。
結果は24時間以内にメールで送られてきて無事に陰性。結果が出るまでは自己隔離との事でしたが、何のチェックもなくてユルユルでした。
イスラエル側の国境の街はエイラット。イスラエルでは紅海沿いのリゾートタウンとして知られている。
うっかりエジプトポンドからイスラエルシェケル両替をするのを忘れていたのでヒッチハイクでエイラットに向かおうとすると、同じく国境を越えてきた若者が「エイラットに行くの?現金がないならバス代はいいから一緒にバスで行こう」と誘ってくれた。
初めて訪れる国ではこういった第一印象が大切。イスラエルへの印象が一気によくなった。
エイラットでは、ヨルダン国境近くの海沿いに、無料でテントを張って眠れる場所があったので、他のキャンピングカー、キャラバン、バスを改造して住んでいる人達に混じってキャンプ。
翌日はカウチサーフィンで連絡していたイダン(Idan)に住むタミ・ヨッシ夫妻のお宅を訪問。
イスラエルで初のカウチサーフィンホストでしたが、美味しいご飯に快適なベッド。前日のテント泊とは反対に超快適に過ごさせていただきました。
イダンは、イスラエルでモシャブと呼ばれるコミュニティ。
コミュニティの周辺には家族経営の農場がたくさんあり、それらが協同組合のように緩やかにまとまり、一つの村のようになっている。
村を歩いているとタイやラオスからの労働者にたくさん出会ったことにも驚いた。
イスラエルではこの村のようにタイやラオスからの若者が農場で働いているのが日常の光景のようだ。
彼らの権利はイスラエル人と同じように保証されていて、有給休暇やバケーションも保証されており、それを守らなければ経営者は多額の罰金を課せられるとの事。
村の周辺がどのようなのか気になって歩いてみると、まず目立つのがナツメヤシのプランテーション。
イスラエルは砂漠地域でも最新の農業技術を駆使して、高品質のフルーツや野菜を栽培している事でも有名。
ここで食べさせてもらったデーツもとびっきり美味しかった。
そしてヨルダンとの国境沿いにある渓谷の谷間にはグリーンハウスがびっしり。
最新の灌漑技術によって、このような砂漠地帯でも大量の野菜を栽培することが可能。
イスラエルが誇る最新の農業技術がここにある。
こんな砂漠で野菜や果物が育つなんて最新の技術は素晴らしい。
エジプトからイスラエルに来て、変わらないものは自然風景。
村の周辺を歩き回ってみると、シナイ半島から続く砂漠の景色。
数日お世話になったタミ・ヨッシ夫妻に別れを告げ、ヨルダン渓谷を北へ向かう。
その道中には、有名な死海。
イスラエル/パレスチナ滞在中に、これから3回も訪れることになる美しい風景を横目に眺めながらヒッチハイクで北上。
そして、3週間ほど滞在したパレスチナ自治区内のユダヤ人入植地へ到着するのだった。
パレスチナ自治区内のユダヤ人入植地ネベエレス村
イスラエルとパレスチナを訪れて興味があったのは、1948年以来続く「パレスチナ問題」。ユダヤ人とパレスチナ人の両方と一緒に時間を過ごして、できるだけ公平な立場から考えてみたかった。
そこで最初にワークアウェイで発見したのが、パレスチナ自治区内に住むユダヤ人の人々と一緒に過ごす機会。
イスラエルは占領下のパレスチナに、国際法では違法にも関わらずユダヤ人入植地を作り続けており、それがパレスチナとの紛争が長期化している原因になっている。
しかも私が今回滞在していたのは、英語でアウトポストと呼ばれる私設入植地。イスラエル政府公認ではないが、その暗黙の支持を得て勝手にパレスチナ自治区内に作られた村。
ユダヤ人の文化に興味があったのはもちろん、彼らがどんな考えでパレスチナ自治区内で暮らしているのか知りたかった。
滞在していたネべ・エレス村があるのはエルサレムから北東に20kmほど離れた丘陵地帯。
小高い丘の上に登ると、遠くにはヨルダンとの国境地帯まで見渡せる場所。
この地では4月から11月まで雨がほとんど降らず、それ以降の冬の時期に降雨量が多い気候。私が滞在していた3月中旬から4月初旬は一番緑が美しい時期であった。
オリーブの木々が植えられた風景の中に、色とりどりの花が咲き誇る美しい時期。
丘陵地帯を谷間に下っていくと見事な渓谷。
切り立った崖と奇岩が作り出す絶景。周辺ではロッククライミングも盛んなようだ。
ベドウィンの家族も近郊に住んでおり、周辺を散策しているときは山羊を放牧している彼らと度々出会うことがあった。
彼らも政府の許可なしに居住しているので、イスラエル側の警察と揉めることも度々あるよう。
こんな風景の中に、ネべ・エレス村はある。
イスラエル政府が支援して作られた入植地では画一された建物が機械的に建ち並ぶ一方、この村は各入植者が各々に好きな家を建てている。
ある人は洞窟内に、ある人は土壁のような自然素材だけで、ある家族はバスを改造したモーターホームのスペースを拡張するように家を建てており、ヒッピーの村のような雰囲気さえある。
国際法違法のアウトポストだという事を除けば、田舎暮らしが好きな人にとっては素晴らしい風景の中にある美しい村と言わざるを得ない。
この村で3週間ほどお世話になっていたのが、ドロルとバトヘン夫妻。ドロルはポーランド系、バトヘンはイエメン系のユダヤ人。
ドロルの職業は大工で、バトヘンは元イスラエル軍士官で現在は芸術家。バトヘンの作るイエメン風のイスラエル料理とお菓子は絶品だった。今でもよだれが出る。
常にキッパ(ユダヤ人の帽子)を頭に付けているドロルは日本の建築好きで、日本の大工が使う両刃のこぎりや鉋、左官の使うコテなどを、わざわざ日本から輸入して使っている。
ここでは彼らの建設作業(主に自然素材の家)の仕事をボランティアとして手伝いながら、ユダヤ人の文化やイスラエルとパレスチナ問題について意見の食い違いがありながらも、多くの事を学ばせてもらった。
彼らの家に入って、まず目に入ってくるのがユダヤ教の経典が所狭しと並べられた本棚。
モーセ五書とも呼ばれる613の戒律が書かれた「トーラー」。トーラーの他にモーセが口伝でしたとされる口伝トーラーを文章化してまとめられた「ミシュナ」に、そのミシュナを分析・議論した解説書である「タルムード」。
「ミシュナ」は西暦70年にエルサレムの神殿が破壊された後、近い将来に故郷を追われることの危機感を感じたイスラエル各地の教学院のラビ(宗教的指導者)達が、将来にわたってユダヤ教の慣習を維持するための新たな基盤を作ろうとして編纂されたもの。
彼らは議論を重ね,自分たちの口伝律法の様々な伝承を整理統合。そして,それを土台にしてユダヤ教のための新たな制限や必要条件を定め、神殿を持たずに聖なる日常生活を営む事ができるようにしたのです。
「タルムード」は、「トーラー」と「ミシュナ」に関して幾千件もの未解決の問題や何世紀にもわたって行なわれてきたラビの議論をまとめたもの。
ラビたちの意見の対立の原因、それぞれの主張の根拠を探り、反論と再反論、というようなやり取りの形式で書かれている。互いに相手を説得できない段階で神の意志は人間の多数決で決定されることとなり、少数意見も記録に残されている。
「タルムード」は、ユダヤ人の精神文化がよく表れており、これがユダヤ人に優秀な人が多い理由の一つだと言われる事もある。
ドロルは友人達で集まってタルムードの勉強をするほど勉強熱心で、毎日3回のお祈りをするほど信仰心が深い。
またキッチンに目を向けると、シンクが二つに分かれている。右側は乳製品のみ、左側は肉や野菜などに利用する。ユダヤ教ではコーシェルと呼ばれる食事制限があり、乳製品と肉や魚を一緒に食べない。
乳製品と肉を一緒に調理したり、同じお皿にのせることも禁じられており、間違って一緒にしてしまうと調理器具やお皿を捨てないといけないほど厳格。だからキッチンを二つに分けることによって、間違いを避ける。
洗い物を手伝う時も、間違えないようにめっちゃ気をつけました。
毎週金曜日の日没から土曜日の日没まではシャバット(安息日)。シャバット中は、公共交通機関が全てストップし、ショッピングモールやスーパーなどもすべて閉まる。
創世記によると神は6日で世界を作り、7日目はお休みされたとされています。よってユダヤ教徒は神と同じように6日間働き7日目は安息日として休息をとるというのが理屈。
安息日には、いかなる「作業」も禁じられています。例えば火や電気、車などを使うという行為も「作業」のうちに入るので、これらはすべて安息日には禁じられているのです。
さらに電球や、エレベーターのスイッチを押すこと、携帯の使用、トイレットペーパーの紙をちぎる事さえシャバット中にはできない(笑)
だから金曜日の日没までにシャバットのための準備を済ませておく必要があります。食事は事前に調理して温めればよいだけにする。その食事を温めるための器具や家の電球には、タイマーが設定されており、自動でスイッチが入るように準備。
トイレットペーパーの紙は事前にちぎって置いておくことさえ(笑)
宗教熱心なドロルとバトヘンももちろんこの慣習に従うので、一緒に住んでいる私も郷に入れば郷に従え。「シャバット・シャローム(平和な安息日を)」と声を掛け合って、安息日を楽しみました。
ある日のシャバットに村人が家を訪ねてきて、「頼みがあるんだ。タイマーの時間を変えたいから手伝ってくれ」と。自分達では変えられないけれど、ユダヤ教徒以外の人に頼むのはオッケーらしい(笑)
シャバットの日にドロルと一緒に村にあるシナゴーグに行き、村人たちが集まってお祈りをする姿を見物したのも興味深かった。ユダヤ教徒が10人以上集まると、正式なお祈りができるらしく、こうやってコミュニティを大事にする習慣がユダヤ教を現代まで生き残らせてきたのだと実感した。
そしてシャバットを経験してみて驚いたのは、古代からの慣習にも関わらず現代社会だからこそ必要な事。スマホやインターネットを使えないので、めちゃくちゃいいデトックスになるのです。
ユダヤ人ときくと「選民思想」を持った近づきがたい人々だと勘違いしていたけれど、実際にネべ・エレス村で彼らと過ごしてみると全然そんなことなかった。
食事に誘ってくれたり、一緒にバーベキューしたり、フレンドリーでおもてなし精神にあふれる人々だった。美味しいご飯もたくさん食べさせてもらえたし。
何でこんなに素敵な人達が、パレスチナ問題を知りながらわざわざパレスチナ自治区に住んでいるのか…。そんな疑問がわくばかりだった。
また幸運な事に滞在中に彼らのお祭りに参加する事さえできた。それが「プーリム祭」だ。プーリム祭は、ユダヤの人々が古代ペルシャ帝国の迫害から逃れた事を記念して始められたユダヤの祭りです。
ドロルによるとユダヤ人が一年に一度だけ本気でハメを外せるお祭りなのだとか。
当日の夕方、まずは仮装した姿で村のシナゴーグへ。シナゴーグに到着すると普段は正装でお祈りしている村の人たちも思い思いの仮装した姿。
シナゴーグでお祈りした後は、お祭りのメイン会場へ。そこでは老若男女集まって、プーリム祭の基になった彼ら自身の歴史エステル記の朗読。もちろんそこには子供達の姿もあり、参加する。
こんな風にして古代から彼らは自身の文化、慣習、歴史を世界各国で地域地域で伝承してきたのだろう。
エステル記の朗読後は、爆音のノリの良い音楽がかかり、大量のワインと食事、酔っ払って踊り狂う。
みんな楽しそうだ。
綿菓子に、ポップコーンに、ハンバーグ!テキーラ、ヴォッカ、ビール、ワイン!
仮装した村人たち。ピカチュウまでいるし(笑)
翌日には近所の人々の家を訪れ、贈り物の入った小包を互いに贈り合う。小包には手作りのお菓子や、ビールやワインや何でも。
お昼になると近所の友人に食事に誘われて、また昨日に引き続き飲みまくる!そんな楽しいお祭りだった。
プーリム祭に参加した後もさらに幸運は続き、翌週はドロルの家族の結婚式にまで参加。
ユダヤ人の家族は大家族なので、家族だけを誘っても軽く100人は超える(笑)。ちなみにドロルは11人兄弟がいるらしい…。
結婚式場で目に入ってきたのが、「フッパ(Chuppah)」と呼ばれる4本の柱を立て布で天井を覆っただけの簡素なモニュメント。
これは典型的なユダヤ人の結婚式で、二人で力を合わせてこれから築いてゆくであろう家としてのシンボルだという。新しい家庭が友人達や家族により支えられている、として、実際に4本の柱を友人や家族が式の間持ち支えている場合もあるのだとか。
そしてまた驚いたのは、ラビが神に世界創造の感謝と祈りを唱えた後、花婿花嫁が一つのグラスからあふれるワインを共に飲むと、花婿が足元へグラスを落とし、右足で踏みつぶしたこと。
理由は、結婚式という楽しいときではあるが、喜びと苦しみは表裏一体、喜びと共にユダヤ人の長い苦難と放浪の歴史を心に留めるということなのだとか。
そしてグラスが割られた瞬間に大歓声があがり、DJがノリの良い音楽をかける。祝福の言葉があっちこっち大声で飛び交いダンスが始まる。
これまでの厳粛な儀式とは180度変わり、皆が音楽に合わせてわいわいがやがや踊り出す陽気な光景。
こんな風に彼らと楽しい時間を過ごしながら、イスラエルについて多くの事を学ばせてもらった。
一つは彼らの多様性。イスラエル人と聞いて、彼らの顔立ちや文化を一般化することは難しい。
アメリカ、ヨーロッパ各国、エチオピア、イエメン、モロッコなど、彼らは約2000年前にローマ帝国に滅ぼされて以来、ユダヤ人達は世界各国に離散しながら暮らしてきたからだ。
そして驚くことにユダヤ人たちは約2000年間も各国で迫害を受けながら、離れ離れに暮らしてきたにもかかわらず、ユダヤ民族としてのアイデンティティを維持し続けながら、イスラエルを建国するまでに至った事。
彼らはこれを奇跡と呼び、「カナンの地へ再び戻ってきた」と。ユダヤ教を一層信仰する理由とするが、まさにミラクルとしか考えられない。(*個人的には政治的な理由でしかなかったと思うけれど)
このように、世界の民族の中で異例とも言える強い民族へのこだわりが、「シオニズム運動」につながり、パレスチナ人を犠牲にしてまでも、イスラエルという国と土地に関する執着心の源になったのだろう。
ここでまた、ネべ・エレス村で感じた「なぜ私が出会ってお世話になったユダヤ人が、パレスチナ人を犠牲にしながらも、国際法違法と知りながらも、パレスチナ自治区に生活しているのか」という疑問が湧きおこる。
一つはメディアによる情報操作。パレスチナ人は危険なテロリストだというイメージが頭に刷り込まれている。
ネべ・エレス村の人々も、すべての人ではないけれど銃を常備していた。彼ら曰く「パレスチナ人によるテロリストアタックから、人々の身を守るため。銃を常備する市民によって今までも多くの攻撃が未然に防がれてきた」のだという。
もちろん彼らがテロリストアタックと呼ぶのはイスラエルメディアによる報道であり、パレスチナ側では180度異なった報道がされる。無実のパレスチナ人がまた何の根拠もなく殺されたというように。
二つ目はユダヤ教の信仰。宗教心が強い一部のイスラエル人達は、ユダヤ教とスピリチュアルなレベルでつながっている。
再びパレスチナ「カナンの地」へ戻ってこれたのも、神の導きであると信じている。聖典にパレスチナはユダヤ人の土地だと書いてあるじゃないかと…。だからパレスチナにユダヤ人が居住する権利があるのは当然だと何の罪の意識もない。
またヨルダン川西岸の入植地には、宗教的あるいは政治的な理由で家を構える人に加えて、イスラエルの不動産市場よりも大幅に安い相場に引き寄せられた多くのイスラエル人がいるらしい。
彼らは主張する。「これまでパレスチナという国が存在したことはなく(第3次中東戦争の前はヨルダン、その前はイギリスの委任統治領だった)、ヨルダン川西岸は占領地でなく係争地だと。そのため、パレスチナ人と同じようにイスラエル人にも住む権利がある」と。
理屈をならべても、家を失い、自由を奪われ、故郷に帰れないパレスチナ人の犠牲を見て見ぬふりする自己中心的な考えに過ぎないように思える。
そしてふと自分自身の生活を振り返る。イスラエルの好き勝手を、政治的な理由で見て見ぬふりする同じ国際社会に生きる自分。
他の国の人々や自然環境の犠牲の上に成り立つ贅沢な暮らし。
ここではパレスチナ問題として目に見える形で現代社会の歪みが現れているけれど、これはこの地の問題だけではない。
3週間の彼らとの生活を終え、次はパレスチナのアラブ人たちのもとへ。
おわりに
インスタグラムやツイッターでは旅の最新情報を更新しています。よろしければフォローお願いいたします。
コメントを残す